彼女は生きた。
精一杯、生きた。
生を、全うした。

第二次世界大戦。誰もが疲弊し、生にしがみつきながらも死を知らずに求めていた時代。

彼女は産まれた。

中流層の家に産まれたが、決して裕福ではなかった。
時代が時代であれば、彼女はきっと裕福だっただろう。
しかし、徴兵により父親はいなくなり、その後兄2人もいなくなった。
男手をなくした家は女を仕事へとかりだした。

幼かった世田谷も母を助けるため彼女は家事を覚え、自身より幼い弟を面倒みた。
激化する戦局を、戦地へ赴いた家族の身を案じながら、懸命に働き続けた。竹やり授業の合間に覚えた長刀は、気づけば師範代と呼ばれるほどになった。
それらはすべて、家族を、友を守るため身に付けた技術だった。
うら若い少女の、するべきことだったかは定かではない。

そんな彼女にも、転機は訪れた。

激化する戦争のさなか、彼女は恋をした。
同い年の男だった。
人目を忍んで、逢瀬を繰り返すうち、二人は結ばれた。
激動の時代、それでも彼らは互いに互いを愛したのだ。

互いの両親(互いに父親はいなかったが)は大層喜んだ。
…しかし、時代が彼らを許さなかった。

程なくして徴兵の時をまたぎ、愛を交わした男もまた、戦場へと赴かざるを得なくなった。
赤い紙をたなびかせ、日の丸をはためかせ、男は行った。

婚約を交わした、一週間後の出来事だった。

必ず帰りを待っていると、彼女はより懸命に働いた。
気付けば長刀を教えるようになり、自分よりも幼い少年少女を守る側になっていた。

生きて、待っていると。

しかし。

無情にも、懸命に生きた彼女を、無慈悲な何かは殺してしまった。
何度聞いたかしれない警報の後、隠れた防空壕の中。
恐怖に震える子供たちをなだめる彼女の手の中から、するりと抜け出た子供を追って。





真っ白な光が、彼女を飲みこんだ。




彼女は生きた。
精一杯生きた。

何も悪いことはしていない。罰することなどあってはならない。
だから。

「君が望むなら」

奇跡的に助かった子供たちと、彼女が愛した人たちが、彼女が注いだ愛と同等に彼女を愛したから。彼女を愛したから。相応の対価をあげるのだと。

彼女は言った。
望んだのは『愛する人たちの最期を看取ること』

ならば生をあげようか。
偽りの、生だけれど。
君が納得のいくまで、使い続ければいい。


――――奇跡なんてない。あるのは、必然なんだと。



Key 「目」を失うことを恐れて死んだ文学者(ぶんがくもの)
江戸川の生前






鎖国をやめ、文明開化の起きた時代。
新しい蘭学や洋物が溢れ、混在していた時代を生きた江戸川は「本」というものに興味を持った。
知識を深め、広げることを求めることもあったが、純粋に「本」というものを愛していた。
昼夜問わず本を読みふけること、買うことを許される程度に家も裕福だった江戸川は、生き字引と呼ばれる程に見識を深めていく。

元来知らないことに興味を持つ性格のためか、本の虫だけではなく、本で得た知識を試すことも多々あった。好奇心旺盛ではあったが無理をするようなことはなく、強引でもない。
他者からみれば飄々とした、不思議な男だっただろう。

女を抱くこともさらりとこなし、本で得た知識を試すために簡単な研究に手を出すこともした。自分からひけらかすことはなかったが、聞かれれば何でも答える事が出来た彼の周りには人が絶えることはなかった。友人もいた。

ただし、彼の興味は「本」だった。流れゆく人たちを何人覚えていたかは知らない。

そんな彼に、かなしい転機が訪れた。
本を求めるあまり、次第に視力が低下していったのだ。
眼鏡の厚さは日に日に増していったが、それでも彼は読むことをやめなかった。
否。
やめられなかったのだ。

周りの忠告も耳に入らない彼は、さらに本へと没頭していった。回復するともしれない医者の曖昧な診断が彼を奇行に走らせたのかもしれない。

彼は、初めこそ自分の病気を治すために本を読んでいた。読んで読んで読みふけった。しかし、次第に時間を惜しむように様々な本を読むようになる。

時間に比例して、見えなくなっていく目。
そして。

彼は死んだ。死を、選んだ。

視力を失うこと、それは彼にとって死と同義だったのだ。
彼の思考回路を読み解けるものはいなかった。
流れてゆくだけの彼らに、分かるはずもなかった。

時が違えば、偉大な学者になっていたかもしれない。
けれど彼が生きた時代は、彼を殺した。

さあ、愚かものにもう一度「生」を与えよう。
生きられたのに「死んだ」愚かものに、罰を与えようか。




洋文化が花開き定着した時代。
彼は産まれた。
自由で開かれた文化に興味をもち、社交的な彼は流れてゆくものを愛した。
洒落者と呼ばれるまでそうはかからず、またその言葉自体に彼は興味もなく
ただただ楽しく生きる事を享受していた。

流れてゆくもの、それは廃りをもって産まれて死んでゆく。
そんな移り変わりを肯定し、愛す彼もまた、時代の流れに埋もれることもなく乗り続けていた。
流れ流れて流されて。
そんな生き方は瘋癲のごとく。

その日暮らしの旅暮らし。流れは激しさを増したが、彼はのまれる事はなかった。
ただ寄り添い、ふわりと浮かぶその姿は、風に逆らわず流れつづける雲のごとく。
そこにただ、あるのだ。
楽しく、自身が幸せである為にただ。

しかし。
彼にも転機は訪れた。

流れ流れて流れ着いた町の郊外で出会った女と恋仲になった。
人好きな彼の側に恋人という女は絶えずいたがその女は、今までの女とは少し違っていた。

その女は、当時治らずの病気とされていた「労咳」を患っていた。町から離れた家の中でひとり、養生という目的で隔離されていた女を、さびしそうな女を、彼は放っておけなかった。

放っておけなかった、のだろうか?
流されただけではないのだろうか?

流れ流れたその先でたどり着いたその女を
彼は本当に愛していたのか。

それを知るすべはない。

女は自身の境遇を嘆き、世界を嘆き、己を嘆いた。
やせ細ってゆく自身を呪った。
そんな彼女に、男は寄り添った。励まし続けた。

何日たったかは分からない。
女は、世界を恨んで死ぬよりも、いっそ自分で終わらせたいと言った。
いずれ死ぬことに怯えるよりも、自分で死にたいと言ったのだ。

男は。
笑顔で頷いた。

かくして儚く散った男女…と都合のいいような話にはならない。
これは現実だ。

儚く散ろうとした男女。崖から落ちたその先にあったのは
枝葉を伸ばした木々だった。
男はそのまま落下して死んだが、女は枝葉のクッションによりなんと生還。
さらには労咳事態が誤診と判明し、男の死後、女は婚約し順風満帆な人生を享受する。


若き男女の火遊び、燃え上がった恋の末路は物語のようにはいかない。
他人の為の自身の命を散らした男はさぞ憤怒するだろう。


そう思いきや。


男は、それを知ってなお、ケロリと笑って祝福した。

男は、何も感じていなかった。
ただ流れる雲のようにただ流れる先にあったものを享受しただけだったのだ。
自身が犯したことの罪深さを知ることもなく。彼は笑うだけだ。


さてこの話。
憤怒したのは誰だろうか。


嗚呼怖や怖や恐ろしや。閻魔さまのお怒りは天を貫きお怒りだ。
罪を知らせるところから始めなければならない愚かもの。
度を超えた楽天者への教育を。

男は、裕福ではなかった。
両親ともに健在だったが、どちらも大した学はなかった。金もなく、家族三人つつましやかに、六畳一間の長屋に肩を寄せ合っていた。

唯一良かったのは顔だけだろうか。要領が悪いのか馬鹿なのか、人がいいのか。母親はすぐに人を信じ、騙され、父親もまた保証人となり借金を肩代わりさせられる、なんてことは日常茶飯事だった。

そんな両親のもとで育った彼が学んだのは『人は信じない』ということだった。人のよい両親から産まれた子供は、親を反面教師として育ったのだ。

母は献身的に育てたが、その優しさをかければかけるほど、なぜか子供は歪んでいった。ただ、その歪みが表面に現れるのはまだまだ先の話で、少しだけ気難しい子供、と捉えられることが多かったが。

数年の月日が流れた。
着実に確実に、子供は歪んで育っていった。
反面教師としては完璧だったかもしれない。
冷酷とささやかれるほどに人を信じず、常に一人過ごす学校生活。成績首位をキープし続け運動もとりわけ出来なかった訳ではない。

彼は人と慣れ合うことをしなかった。常に、一人だった。

社会とは、常に嫉妬と称賛を抱えて回っているものだ。
こんな子供、同級生からやっかみにも似た悪口をささやかれるのが常だと思われるが、彼は違った。

そうさせない、何かがあった。

同級生は、怯えていた。彼と言う存在が異形の者に見えたのかもしれない。遠巻きに、ただそっと触れないように付かず離れず。子供たちは大人よりも敏感だったのかもしれないが、そんな風に幼少期は過ぎて行った。

かくして偏屈な子供はさらに偏屈になり、次第に自信と野心はつのりつのって大学を無事卒業。両親は喜んだが彼は違った。

彼には行くべき高みがあったのだ。こんなところで満足するようなことはない。育ててくれた両親を欠片も尊敬していなかった男は挨拶もそこそこ、一人東京へと赴いた。そこで目の当たりにする都会と言うもの。田舎と呼ぶには開けていた彼の出身地ではあったが格が違いすぎた。


普通の青年であれば皆その空気に圧倒されるのが常だったが、もちろん彼は違っていた。


青年は確信していた。この土地が自分の求めていた土地なのだと。流れ流れてゆく野心の群れに身を投げることがこんなにも高揚するものかと初めて胸をときめかせた。

時の帝により国会開設の詔が発せられて数年。國會が開催され内閣制度が発足し、時代は瞬く間に駆け抜けていった。
その門を、大学教授の紹介状を手に青年は重厚なそれをたたいた。

欲望渦巻く中心のるつぼ。その先へ。

青年は進みそして、知る。

人の汚さと、駆け引きと。『人の良さ』など無縁の場所であると。
ここが自分の生きる先だと。

そして、知る。

自分よりもなお非道で、自分よりもなお修羅を生きる覚悟を決めた非人道的な者たちの恐ろしさを。その恐怖を、間近で知ることになる。

そして。

所詮この世は生まれなのだと。

自分の力だけで行ける先など、決まっていたのだと。その先を求めるには、自分だけではどうしようもないものを保有していなければたどり着けないのだと。

帝国議会、蔓延っていたのは世襲と金と欲。苦汁を飲みながらもとある議員の秘書を続けていた彼を裏切ったのもまた、議員。

口約束を違えたのは誰だったか。
結局『自分の息子を選出させる』と裏切ったのは誰だったか。

一人で生きて一人で死ぬ。
汚名を着せられた彼の行く先は死の旅路。
自分を貫いたと勘違いした彼の死を嘆いたのは誰か。



だれか。 だれか。


かの王は言う。
一人で生きたと世迷言を言う子供を許しはしないと。

誰一人として信じなかった子供は未だに知ることはない。
驕りを掲げながら視えない闇に怯えてただやみくもに剣を突き刺すその姿は
いつ終わる時が来るのだろうか。


 死神は、己が罪を悔い改めるための部署である。
 死神は、罪深き人間のなる果ての職業である。


 例外は稀。多なかれなかれ、罪を犯し、その裁きの中途存在なのだ。
 そして、その罪を認め、悔い改めた者は次の場へ向かう。
 それが輪廻先か、地獄か、その他の領域か、それは人の知るべきところではない。
 ただ、任が解かれ、その先へ向かう、それだけのことだ。





「荒川区の死神が、輪廻しましたね」

 嬉しそうな、しかしどこかさびしげな声を発したのは20区を取りまとめる青年だった。
 自分の教え子が巣立つような感覚を覚えているのかもしれない。

「そうだね。まぁ代わりなんて、いくらでもいるからいいんだけどさ」

 眠たげな声が返る。青年よりも年上の男は、さも面倒そうに机に広げられた書類の山を見ていた。

「いくらでもって…」

 眉をひそめる青年を横目にみつつ、男は山のように積まれた紙から一枚、意図的に見つけ出してそれを拾い上げる。
 流すように文字を見て軽く頷き、席を立った。

「私ちょっと行ってくるから」
「え?」

 驚く青年をよそに、男は人の悪そうな笑みを浮かべて軽やかにドアへ向かう。

「裁原さん! 僕がいきま…」
「いいよ。この子は多分君じゃ動かない」

 裁原と呼ばれた男はにっこりとほほ笑むと青年を残して部屋を出た。進んだ先にあるのは第十庁裁判所の離れに存在している、通称【死神候補生養成所】
 罪を負った魂に仮の命を与えた子供たちを格納する場所。2度目の選択を迫る場所だ。
 地獄への扉かと見まごうような扉がそびえるその建物には、同じく地獄の門番かと思われるような屈強な男が二人立っていた。
 やってくる男を見つけるなり、腰が折れるかと思うほど直角に背を折り曲げ、男たちは、自分よりも背の低い男を迎え入れる。
 細身の男。しかし、彼の地位は高い。この中陰の地を統べる存在ともなれば、お辞儀の仕方一つで首が飛ぶことを誰もが理解していた。

 鈍い音を立ててドアが開かれた。
 中はかび臭く、鉄の匂いが充満した陰気な雰囲気をまとっていた。遠くのほうで口を塞がれたまま何かを叫び続けている声が複数聞こえる。
 鉄の扉の向こうで必死に何かを蹴り飛ばす音、つながれた鎖を鳴らしながら歩き回る者、鉄で覆われた部屋の中を廊下越しに存在しているモニターが映し出しているが、一様におかしな行動をとり続けているものがほとんどだった。

 はたと、男が歩みを止めた。
 お目当てを発見したようで、後ろから仰々しくついてきた看守を顎で使う。看守は手馴れた手つきで閉じられたドアを開いた。
 モニター越しのその囚人は、微動だにせずただ座っている。

「やあやあこんにちはー」
「…なんだてめぇ」

 鉄格子を挟まない至近距離にいたのは手負いの獣。ずぶ濡れになったまま死んでしまった哀れな哀れな子供だ。ギラギラとした目、他人を寄せ付けない為に張られた虚勢。
 敵と相対した猫のような毛の逆立て方だと男は思った。

「一応説明しておくねー、ここは死神養成所でー君は死んだの。死んだくせに最後まで逃げようとして人にたっくさん迷惑かけてここにぶち込まれたのね。ここまではOK?」
「OKじゃねぇよ! なんだそれ!」

 男はへらりと笑いながらこともなげに告げる。その言葉のノリはとても軽いが、目は笑っていない。
 冷えた目は他人を見下すことを知った目だ。
 冷やかに、ただ冷やかに見ていた。

「…地獄だろ、どうせここは」
「はー? 何ナマいってんのこの子。中二病でもこじらせた?」
「じゃあここはどこなんだよ!」
「冥界」
「は?」
「二度も言わせないでくれる鳥頭。バカにもわかりやすく教えてあげるから。ここは地獄だの天国だのに行く前の裁きの間。中陰の地だよ。そこで君は私が甦らせました。異論は認めない」

 矢継ぎ早に説明された言葉の端々に意味の分からない単語が散らばりすぎていたためか、つながれた男の目は点になったまま。微動だにせず口をあけたまま呆けている。

「私の駒になるの君は。君みたいな子を地獄に叩き落とす前にその性根を叩き直してあげようかなと思って。私って慈悲深いね!」
「な、何言ってんだ? 人を、生き返らせる? おかしいだろ!」
「そういうところだけ常人ぶらないでくれる? 常識があるならコンビニなんて襲わないで倫理と道徳に従って粛々と生きて死んでよめんどくさい」

 つながれた先の鎖が力の限り引っ張られ、鈍い音が重なった。
 鈍い音が耳障りなほど大きく響く。

「仕方ねぇだろ!!!!」
「仕方ない? そんな言葉で犯罪していい道理になるなら『こんな場所』は作られないし、存続してないね」

 男はため息交じりに笑い、膝をついたまま繋がれた男に近づいた。
 あいも変わらず男はにやついた笑みを浮かべたままだ。後ろにいた看守に緊張が走ったが、拘束されたままの男に何ができるわけもなく。
 ただ睨み付けるだけが関の山だ。

「仕方ないで済むのなら、君が生きていた世界の片親、ネグレクトしてる親、そんな親から産まれた子はさぁ、全員もれなく犯罪者な訳だ」
「……」
「でもどうだろう? 一体何人の子が君と同じように犯罪に手を染めてる?」

 繋がれた男は押し黙り、こぶしを握りしめた。唇をかみしめ、ただその言葉を聞いている。

「…でもね」
「私は、君のような子が『全部悪かった』だなんて、いう気はないよ」

 眼鏡の奥に見え隠れするのは、慈悲か侮蔑か、読み取ることはできない。
 ただ。

「産まれを嘆くだけならただの馬鹿。そこから反骨精神で誰彼かまわず当り散らすのも馬鹿。でもね…」
「切り開こうとしてもがくのは、ただの馬鹿じゃない。私はそう思ってる」
「…君は、その力の吐きどころを間違えた。それは罰するべきだ。けれど、その根性は嫌いじゃない。だから、私は君にもう一度生きるチャンスをあげたんだ」
「……」
「あがいてみせなよ、ここで。ただ地獄に堕ちるよりも、よっぽど有意義だと思うけど?」

 まっすぐ射抜くその目は、やはりぎらついていて。
 ここですべてを投げ出して終わりを待つような目では、ないと。
 眼鏡の奥で男は、確信していた。

「…てめぇの、言いなりになるのは癪だ」
「なら地獄に堕ちて、反省するだけだね」
「……」

 男はこともなげにさらりと言う。
 繋がれた男はじぃと目の前の男を見た。
 上等そうな服をまとっている訳ではない。ぱっと見、ただのそこら辺にいる男のようだ。役柄で言えば、取り立てて平凡で、名前のない脇役のような。

 ただ違うのは、全身から溢れる嫌な気。
 これが、脇役とは明らかに違う雰囲気を、男に与えているのだ。
 人を、従わせるだけの圧力。
 言葉とは裏腹の冷めた目と、重圧すら感じるその気が、男をただの男ではないと思わせるのには十分だった。

 繋がれたままの男は、押し黙るように地面を見つめた。
 目を閉じて、息を、吐く。
 
 耳を澄まさなくても聞こえる。
 言葉にならない声を発し、何かうわごとのようにつぶやくだけの、生気のないおかしな連中がいる。鎖に繋がれたまま、不用意に動き回るもの、自らの体を切り、いたぶり、それに狂喜する者。

 かび臭く、辛気臭い。何もかも投げ出した者が収容される場所。
 牢獄のような部屋の中で。
 自分とは多分違う、絶望しきった何か達は、全員たぶん。


 ――――死神とやらには、なれない。


 そう何かが、直感めいた何かがそれを悟らせる。

 生きていた頃、ロクでもないことだらけの人生だったと、男は死ぬ前に口にした。 
 けれど。
 男は、思っていなかった。

 ここで死ぬなんて、死にたいなんて、欠片も思っていなかった。
 ただ、生きるために。
 生き延びるために。

「俺は、ごめんだ。あんな奴らと一緒に扱われるのなんて」

 意思を持った目で、射抜く。
 ぎらついた目、この収容所にはない、光。

「で? どうするの? 面倒くさいのはいいからさっさとしてよ。私も時間がな…」
「『死神』ってのになりゃいいんだろ。内容は、お前の前に来たひよこ頭のガキが言って…」

 言い終わらないうちに、圧倒的な力で、顎を鷲掴みにされた。男は目を見開き、目の前の男を見る。
 どこからそんな力が出ているのか全く分からないが、ぎりぎりと音を立てて爪はめり込んでゆく。壁端にたたきつけられて全身が鈍く痛んだ。

「口のきき方に気を付けたほうがいいよクソガキ。そのひよこ頭ってのは私の秘書で、君よりも数百倍地位が高いから」

 先ほどよりも熱を持った目で、男は言った。
 しかしほどなくして怒りをはらんだ目は沈下し、すぐに冷えた目で男を見下ろす。

「いけないいけない。それじゃあはい、ここの紙にサインして。あ、拇印でいいや」

 そういいながら男はどこから取り出したかよくわからない紙を持ち出し、男の目の前に押し出すように見せてきた。
 言われるままに親指を切り、血のにじむそれを押しこむようになすりつければ、紙は瞬く間に青い炎に包まれ消えてしまった。熱くはない、ただ、何の痕跡もなく燃えて消えたその紙を、唖然と見つめる男をつないでいた鎖もまた、同時になくなっていた。

「君が担当するのは東京23区の『荒川区』ね。業績が悪いと左遷だからそのつもりで」
「…働かせる気かよ」
「あたりまえじゃない。君、私の秘書に聞いてたんでしょう? 業務の話。だったらわかってるよね」

 男は笑う。至極美しく唇は弧を描き、緩やかに目を細めて。

「死神は、罪を償うための罰の延長。私のもとで馬車馬のようにこき使われるのがお仕事なんだよ」



 死神は、罪を償うための場所。
 そして。

 大人になりきれず、子供というには大きすぎる悲しい子供たちに、二度目の生を与える場所。


 ぎらついたその目の奥に宿る、魂のその先にあるもの。
 その先に、あるもの。

 いずれ、その物語が始まったら。


「楽しみだね、君はそのために私がもう一度生かしたんだもの」


 冗談交じりにつぶやかれた言葉は、誰に拾われることなく消えた。
 新しい死神の誕生。 

 その先に、待っているものが何か、それは己が手で、見つければいいと。
 男は、笑った。